2012年5月16日水曜日

スペインのアメリカ大陸征服


 1492年のコロンブスの航海以降カリブ海に進出したスペインは、1514年までに主な島々の征服を終えて、その関心は徐々にアメリカ大陸内部へと向けられはじめる。1517年のフェルナンデス・デ・コルトバによる第一回探検と、1518年のファン・デ・グリハルバによる第二回探検により、ユカタン半島の山奥に豊かな大帝国があることを知ったキューバ総督ディエゴ・デ・ベラスケス(1465〜1522)は、本格的な探検を行うことを決意し、その指揮官としてフェルナンド・コルテス(1485〜1547)を任命した。ベラスケスは独立心の旺盛なコルテスを選んだことを後悔して、すぐに任命を取り消したが、コルテスはそれを無視して出発してしまった。

 キューバ沿岸を進みながら兵を募り、歩兵509、船員109、弓兵3 2、小銃兵13、大砲14門、軍馬16頭にまで戦力を充実させたコルテス隊は、1519年4月21日、ユカタン半島に上陸する。スペイン人たちはそこでセンポアランという町に住むトトナカ人と接触し、強力なアステカ帝国に支配されたメキシコ情勢に関する詳細な情報を入手することができた。トトナカ人のアステカ帝国に対する強い不満に気づいたコルテスは、センポアランに進軍してトトナカ人の協力を得ることに成功する。


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 海岸にベラクルス市を建設して拠点を確保したコルテスは、全ての船を沈めてキューバへの退路を断つと、8月16日にメキシコ征服に出発した。遠征隊は途中、アステカ帝国から独立状態にある都市国家トラスカラの大軍と遭遇する。3回にわたる激しい戦闘の結果、トラスカラ軍の指揮官シコテンカトルはコルテスのもとに来て降伏し、これ以降スペイン軍の味方となってアステカ帝国との戦いに協力することになった。

 険しい山道を越えたコルテス一行は、11月8日、ついにテスココ湖の中洲に築かれたアステカ帝国の首都、人口20万の水上都市テノチティトランに到着する。アステカでは「かつて生贄に反対したために東方に追いやられたケツァ ルコトル神が、いつの日か再来して人民に災厄をもたらす」という伝承が信じられていたため、アステカ皇帝モクテスマ2世(1480?〜1520)はスペイン人の出現をケツァルコトル神到来と信じて戦意を喪失していた。モクテスマ2世はコルテスたちを宮殿へと迎え入れ、贅沢な贈り物をすることで帰ってもらおうとしたが、このことはスペイン人たちの物欲をさらに刺激して火に油を注ぐ結果になってしまう。11月14日、コルテスはクーデタを起こしてモクテスマ2世を監禁し、彼を傀儡にしてアステカ帝国各地から莫大な黄金や財宝を集めさせた。


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 一方、キューバ総督ベラスケスはコルテスの独断専行に怒り、パンフィロ・デ・ナルバレス(?〜1529)指揮する追討軍1000を差し向けた。ベラクルス市からの報告で追討軍の存在を察知したコルテスは、1520年5月初め、ペドロ・デ・アルバラード(1485〜1541)に兵120を託してテノチティトランに残し、自らはわずかなスペイン兵とトラスカラの戦士多数を率いて海岸地方へと迎撃に向かう。5月29日早朝、コルテス率いるスペイン兵370は、センポアランで夜営していた追討軍に大雨に乗じて奇襲攻撃をかけ、降伏したナルバレスの部下たちは大半がコルテスの麾下に入ることを誓った。

 しかし、コル� �ス留守中のテノチティトランでは祭典に興じるアステカ人を見て、恐怖に駆られた残留部隊が大虐殺を行ってしまう。それに激怒したアステカ人たちが一斉に武装蜂起したため、アルバラードたちは宮殿に包囲されてしまった。急遽テノチティトランに引き返して篭城中のアルバラードたちと合流したコルテスは、モクテスマ2世を宮殿の屋上に立たせて停戦を説得させようとしたが、アステカ人たちは彼を見限り、弟のクイストラワックを新たな指導者に選んで攻撃を続けた。6月30日、投石に打たれたモクテスマ2世が死亡し、コルテスはやむなく首都撤退を決断する。


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 7月1日早朝、コルテスたちは雨のなか撤退を開始したが、アステカ人たちが船を焼き、橋の大部分を破壊していたために、水上都市からの脱出は困難を極めた。コルテスたちは辛うじて追撃を振り切って逃げ延びることが出来たが、アステカ人の攻撃によってスペイン兵150〜450とトラスカラの戦士2000〜4000が命を落とした。この惨劇は後に、「悲しき夜」と呼ばれることになる。

 同盟国であるトラスカラに到着したコルテスは、意気喪失して撤退を希望する部下たちを説得して、何とか態勢を立て直した。コルテスは、湖周辺の都市国家を征服してテノチティトランを孤立させ、ブリガンティン船13隻を組み立てて湖� �から攻撃するという作戦を立てる。本土から冒険を求めて新たな兵力が加わったためスペイン軍は、歩兵700、騎兵90、射手と小銃手120にまで増強され、これまでアステカの圧制に苦しめられていたトラスカラをはじめとする諸都市から15万もの兵が集まった。包囲されたテノチティトランでは食糧不足が深刻になり、さらにスペイン人の持ち込んだ天然痘の蔓延によって、新皇帝クイストラワックも在位わずか80日で病死してしまった。


 1521年5月末、テノチティトランに対する総攻撃が開始された。何度も首都中央まで進撃を繰り返すスペイン軍を、激しい抵抗によって押し戻したアステカ軍は、ケツァルコトル神を示す金星が太陽の後ろに隠れる7月末から8月はじめにかけて反撃を試みた。しかし、鉄の鋳造法を知らず黒曜石片の刃を付けた剣や槍で戦うアステカ軍の攻撃は、スペイン軍の大砲や小銃などの猛烈な砲火によって撃退されてしまう。8月13日、最後の皇帝クアウテモック(1495?〜1525)が、カヌーでテノチティトランを脱出しようとしたところを捕らえられ、ついにアステカ帝国は降伏する。

 75日間の激しい攻防戦によってテノチティトランは廃墟と化し、1525年初めにクアウテモッ� ��も反乱を企てたかどで処刑された。業績を評価されてメキシコ総督に任命されたコルテスはその後、中央アメリカ各地に遠征隊を派遣したが得るところはほとんどなかった。やがてメキシコ植民地の行政権を自らの手に収めようとするスペイン王室によって、コルテスはしだいに政治の埒外に追いやられるようになり、1547年12月2日、スペインのセビリャ郊外で没した。



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